庭の金柑と井戸端会議
私の家はブロック塀に囲まれている。
この地区では、大きな家に分類されていて、母親は班長を任されている。
近所とのコミュニケーションが少なくなった時代にもかかわらず、私の家には多くの主婦たちが集う。
ブロック塀に囲まれた庭には、高校生である私の身長とほぼ変わらないぐらいの高さの木が何本も植えてある。
その木には二月上旬から五月中旬にかけて、金柑の実がつく。
私は柑橘系があまり好きではないので「もっと美味しい食べ物を植えてくれればいいのに」と、小さい頃から思っていた。
みかんとか金柑とか植える人が多いのは、昔の風潮だろうか。

今日も庭先に近隣のおばさんたちが集まっていた。
母は気さくな人間で、周りからの評判もいい。
「人当たりの良さが人脈を広げているのだろう」と、私から見てもすぐに理解できた。
おばさんたちとの会話は、「少しずつ暖かくなってきたわね」なんて、当たり障りのない話をしている。
そうかと思うと「ゴミの分別ができていない人がいる」といった具体的な苦情に話が着地する。
班長ということもあって、近隣住民の苦情にも対応しないといけないらしい。
実際は、そこまで対応する必要なんてないのだが、母の「私がしないと!」という責任感がそうさせているようだ。
もともと、几帳面で、真面目な性格の母は私へのしつけも厳しかった。
しかし、勉強に関するしつけは、それほどでもなくて、主に生活面でのしつけに厳しい人だった。
箸の持ち方とか、挨拶とか。
そんな母の教えを守って育ったこともあり、私は近所の人への挨拶も欠かすことはなかった。
そのため、庭で開かれる井戸端会議に参加しているおばさんたちからも、好印象を持たれている。
別に良い風に見られたいわけではなかったのだが、自然とそう思われるようになっていった。
これも母のしつけのおかげだ。
周りから嫌な視線を浴びるよりは、ずっと良い。
お気に入りの場所と絵本
私は庭に集まったおばさんたちに「こんにちは」と、挨拶をして、家を出ることにした。
行き先は近くの図書館だ。

私は勤勉家ではないが、図書館で本を読むのは大好き。
しかし、一般的な読書とされる小説のようなものを読むわけではない。
私が図書館で読むのは、決まって幼児コーナーにある絵本だ。
子供と親御さんが一緒に絵本を選ぶ中に混ざって、私も今日読む絵本を探す。
必死で絵本を選んでいると、隣で絵本を選んでいる子供と目が合う。
「お姉ちゃん。絵本読むの?」
子供は不思議そうに目を丸くして、私に尋ねてくる。
私は「うん。お姉さんも絵本が好きなの」と答えて、にっこり微笑んだ。
「そうなんだ! この絵本面白かったよ!」

子供は私に猫の絵が描かれた絵本を渡してくれた。
大体の絵本は、もう読み尽くしていたけれど、子供に渡された猫の絵本は、読んだことがなかった。
「ありがとう。読んでみるね」
私は子供に満面の笑みを返すと、その子も「うん!」と大きく頷いて、無邪気な笑顔を見せた。
私は猫の絵本を持って、幼児コーナーの絵本の棚から離れた席に座った。
周りに子供の姿はなく、小説や新聞を読んでいる大人たちが真剣に目を動かしている。
そんな大人たちをよそ目に私は猫の絵本を開いた。

絵本の内容は、野良猫が家にやってきて、その猫を家族で飼うことにするというものだった。
野良猫を拾って飼う家族の姿が読者の心を温かくするというコンセプトなのだろう。
絵本に魅了された理由
私が小説ではなく、絵本を読む理由はここにある。
絵本は文字が少なく、可愛らしい絵がページの大半を占める。
絵を見るだけで、本の内容が分かるのが一番の醍醐味だ。
子供でも分かる内容になっているのが絵本であり、文章を読まなくても頭にスッと入ってくる。
小説のような文字だけの作品では、こうはいかない。
自分で想像を膨らませて絵を思い浮かべなければいけない小説の場合、自分が描いた絵と他の人が描いた絵は全く異なる。
一方、絵本なら誰が読んでも同じ絵を見ることになる。
正解がない小説の中の絵と正解しかない絵本の中の絵。
同じ本という物体なのに、私の中では大きな違いに思えて仕方がない。
私は猫の絵本を幼児コーナーの本棚に戻すと、家に帰ることにした。
絵本と現実の狭間
家の庭では、まだ井戸端会議は続けられていた。
「あら、おかえりなさい」と、おばさんたちに声をかけられて「ただいまです」と、返事をする。
パッと金柑の木を見ると、木のあいだからブロック塀の上をゆっくりと歩く黒猫の姿があった。
私はさっき読んだ絵本の中の猫を思い出す。
絵本に描かれていた猫は三毛猫だったが、ブロック塀の上をゆっくり歩く黒猫が可愛く感じた。

私は猫を見ていると、野良猫を飼う絵本の内容が頭によぎる。
私を温かい気持ちにさせた絵本の中の世界。
私も母にお願いをして野良猫を飼ってみようか。
なんていう思いも抱いてしまった。
「あ! 野良猫ですよ。奥さん」
「まぁ! うちの金柑を狙ってきたのかもしれないわね! シッ、シッ!」

野良猫に気づいたおばさんの一言と野良猫を手で払い除ける母の言葉を聞くと、家の扉を開けた。
「現実って、こんなものだよね」と、小さなため息をついた。
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